水面に平べったい小石を投げて、水の上を何回弾ませるか競う遊びを、なんて言うのだろうか。 子どものころ、友だちと飽きずに続けたものだ。 場所は、二子玉川の兵庫島あたりの多摩川だった。
今は遊泳禁止だが、あのころの夏は、水遊びの子どもやおとなで賑わって、タイヤのチューブを膨らませた貸し浮き袋屋とか自転車に荷台にノボリを立てたアイスクリーム売りの姿もあった。 ただ、1年に1人か2人は水死していたと思う。
同じ多摩川のもっと下流、丸子橋からガス橋を経て多摩川大橋にかけて長いjog & walkをしているときに、そんな子どものころの多摩川の光景を思い出した。 そして、久しぶりに石を投げてみようかと思って、周りを見回したが、その辺りに砂利の河原はなかった。
幼児期の刷り込み効果で、多摩川の水辺というと一面の砂利というイメージをずっと持っていたから、これは驚くべき新発見だった。 なぜ、砂利がないのだ。
大田区は多摩川に面しているだけに、区立図書館はさすがに多摩川関連の文献が充実していた。 そう、砂利のことを知りたくて、図書館に行ってみた。
ここで、さらに、ちょっとした驚きに出会った。 借り出した資料は「新多摩川誌」、ハードカバーで上中下3冊の立派な書物で、1冊2kgはある。 これは、凄い書物だった。 多摩川の自然から流域の歴史、習俗、経済、環境問題など、あらゆるテーマを網羅した百科事典といえる労作だった。 多摩川に関して何かを知ろうとすれば、おそらく、この「新多摩川誌」を避けて通ることはできないであろう。
もっと驚いたのは、これを企画したのが「国土交通省関東地方整備局京浜工事事務所」で、発行したのが、その外郭団体「財団法人・河川環境管理財団」だったということだ。
いずれの組織も、多摩川河川敷の整備、管理を担当しているが、周辺住民の目から見ると、洪水防止を除けば何もしていないヒマな役所で、存在そのものに疑問が持たれている。 仕分けの対象にならないのが不思議なくらいだ。
そんな役所に、こんな立派な出版ができたのだ。 なんだ、その気になって仕事をすれば結果がきちんと出るではないか。
「新多摩川誌」が教えてくれたのは、多摩川の砂利の歴史は、日本の資本主義発達史そのものだということだ。
東京の都市としての発展には、コンクリート建設に欠かせない多摩川の砂利が大きな貢献をした。 多摩川の砂利は良質なことで知られ、建設資材ばかりでなく、敷石としても重宝がられた。 皇居前広場に敷かれた砂利も多摩川産だという。 採取は下流から始まって遡上していった。 やがて、丸子橋あたりまでは砂利が掘り尽くされ、自然の川は死んでしまった。 その後、まがりなりにも採取が規制され、丸子橋より上流には砂利が残った。
今、広々とした河川敷は、野球やサッカーのグラウンド、テニスコート、ゴルフ練習場になって、スポーツの歓声が響いている。 これも、砂利が消え、川が死んだおかげなのだ。
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