2011年6月10日金曜日

フクロウ騒動



 (以下、 The Yesterday's Paper から転載)

2010年12月27日

 <フクロウ5羽が、大田区の多摩川河川敷にねぐらを作り、住民の間で「散歩の楽しみが増えた」などと話題になっている。 日本野鳥の会(品川区)によると、「トラフズク」というフクロウの仲間。 雪が苦手で、冬に数羽から数十羽の群れで本州以北の寒冷地から暖かい地域へ南下してくるが、都心部で見つかるのは珍しいという。 ネズミやモグラ、小鳥などの餌を捕まえやすい河川敷で、身を隠す常緑樹があるなど条件がそろっているためではないかとしている。 同会自然保護課の葉山政治さん(53)は「人が集まったり、フラッシュを使って撮影したりすると、ねぐらを放棄してしまう恐れがある。 移動する春まで静かに見守ってほしい」と話している。>(2010年12月23日付け読売新聞)

 この記事の見出しは、「多摩川河川敷にフクロウ『静かに見守って』」。

 それから数日後、ジョギング代わりにしているマウンテンバイクのサイクリングで、いつもは人気のない多摩川の川岸を走っていたら、見慣れない人の群れに出くわした。 誰もが長い望遠レンズを装着した一眼レフ・カメラを持っている。

 彼らは皆、頭の真上の樹木をみつめていた。 見上げて見ると、見慣れない姿の鳥が数羽、枝にとまっていた。 どうやら、新聞に出ていたフクロウらしい。 フクロウたちは、人間たちに静かに見守られてはいなかった。

 自宅のまわりに人だかりがして、一斉に自分の居間が覗かれていたら、誰だって頭がおかしくなる。 フクロウだって同じだろう。 たまったものではない。

 「静かに見守って」と新聞が報じれば、逆に騒がしくなるに決まっている。 とはいえ、この珍しい光景は、やはりニュースであろう。

 この報道は正しかったのだろうか。

 フクロウが早々にねぐらを放棄して姿を消したら新聞の負けだと思う。 それにしても、新聞は報じる前に、その是非を検討したのだろうか。 まさか、していないとは思わないが。


2011年1月10日

 多摩川のフクロウに群がる霊長類ヒト科カメラ族の数は、年を越しても減る気配はない。

 さらしものにされた可哀想なふくろうたちよ!!!

 カメラじじいと呼ばれる年寄りたちは、巨大な望遠レンズの重さに耐え、腕をぶるぶる震わせながら樹上のフクロウを捉えるシャッターチャンスを狙っていたが、明らかに手ブレ防止装置の限界を超えていた。 あの振るえは本格的寒気による強い北風のせいもあろうが、自分の実力を無視した喜劇であろう。

 有名な女写真家ヘニー・ファン・ヘールデンがベンガルワシミミズクの迫りくる飛翔を見事に捉えるCanonのテレビCMを真似しようったって、そうはいかない。

 高額なカメラとレンズをいじくる快感に没頭するオタクたちには、彼らの標的となったフクロウたちの心情を慮る神経が欠如している。 彼らのそばを通るとき、覗き魔変態集団の薄気味悪さを背筋にぞくぞく感じる。 これも寒さのせいだけではないと思う。


2011年2月2日

 衆人環視のもとでの生活を強いられた多摩川フクロウの悲劇は、いくつかのきっかけが重なった結果であろう。 どれか一つに責任を負わせることはできないが、明らかに、きっかけの一つを作った人物を、ほぼピンポイントで特定することができた。

 哀れなフクロウたちの居場所から遠くない駅近くの商店街の熟年男だった。

 本人に悪気はまったくなく、無邪気に色々なヒトに見てもらいたいと思って、新聞社に電話で通報した。 新聞は場所をぼかして、珍しいフクロウの飛来を報じたが、地物の口コミもあいまって、たちまち知れ渡ってしまった。

 通報した人物は、新聞が場所を明確に伝えなかったので、役所の広報課にも電話をして、問い合わせがあったら教えるようにと詳しい場所を伝えた。

 善意の人なのだ。 きっと周囲の人たちに好かれる親切なオジサンであろう。 そして、フクロウの写真を撮ろうと連日集まる人々も、動物と自然を愛する優しい気持ちを、心の中に多少は持っているだろう。

 フクロウたちは、かれこれ2か月も人間たちに連日覗かれながら、けなげにも同じ場所で動かずに耐えている。

 そろそろ”視撃”から解放してやりたいが、好奇心をいう魔物がそれを許そうとしていない。


2011年3月16日

 巨大地震・津波が起きる直前の3月11日午前中には、確か2羽がいたと思う。 だが、2日前には1羽しか見なかった。 そして、きょう3月16日は、朝から1羽も見なかった。

 東京・大田区の多摩川河川敷に昨年12月から棲みついた6羽のフクロウは、たちまち人間たちの好奇心に晒され、3か月間にわたりカメラという狩猟道具の標的にされ続けた。

 年が明け、ハンターたちの数が膨らむにつれ、フクロウの数は1羽ずつ減っていった。 いったい、どこへ行ったのだろうか。 ストレスで死んでしまったのだろうか。

 彼らが棲んでいた柳の木は、まるで空き家のようだ。 留守になった枝で戯れているのは騒がしいムクドリだけ。

 短い期間だったが、多摩川のスーパースターになったフクロウたちが、どこへ消えたのか、誰も知らない。

2011年5月11日

 日本を代表するカメラメーカーCanonの社名は、1935年、世界で通用するブランド名として採用された。 キリスト教の「聖典」「規範」を意味し、精密機械にふさわしいというのが理由とされる。

 英語で1字違いのスペルcannonは、発音は同じだが意味がまったく異なる。 戦場で昔から使われてきた代表的な大砲のことだ。

 近ごろ、野生動物の撮影と称して、兵士のように迷彩服で身を固め、長大な望遠レンズを担いでいるマニアックな人々を見ると、Canonは、社名をCannonに変更してもいいのではないかと思ってしまう。 あの望遠レンズは、みかけがRPGロケット砲みたいだというだけではなく、実際、命を脅かす武器にもなるからだ。

 川崎市・平間のベテラン写真家K氏が語るカメラ・フリークたちの生態はおぞましい限りだ。

 この冬、東京・大田区の多摩川河川敷にフクロウの1種、トラフズクが棲みつき、カメラを担いだ人間たちが群がった。 彼らは、夜行性のトラフズクが樹上で休んでいる昼間、情け容赦なく望遠レンズ=大砲の集中砲火を浴びせた。 K氏によると、動物へのいたわりの気持ちがかけらもない連中の存在は、今に始まったことではない。

 約10年前までは、多摩川の川崎側でトラフズクを見ることができたという。 当時も、その存在が知れ渡り、カメラ人間たちが群がった。 昼間は目を閉じて休んでいるトラフズクを長い棒でつついて起こして、目を開けた写真を撮ろうとするヤツまでいたと、K氏は憤慨する。

 このころは、コミミズクも多摩川に棲んでいた。 コミミズクは昼間も行動するので様々な絵柄の写真を撮れる。 狙い目は、河川敷に巣食う野ネズミを急襲する瞬間だ。 だが、水辺ぎりぎりまでゴルフ場の芝が敷き詰められてた河川敷の餌場は限られている。 ところが、狼藉者たちは、ずかずかと餌場に入り、ネズミの巣穴の上に立ってカメラを構える。 これではコミミズクがネズミを捕らえることはできない。

 K氏は「鳥の気持ちを少しは考えろ」とたしなめた。 すると、その相手は「オレは鳥じゃないからわからん」とうそぶいた。 それでもK氏は、群がる無法者たちに丁寧に説明して、餌場の外で撮影するというルールだけは守るようにさせた。

 それからしばらくして、その餌場は多摩川の大水で冠水した。 以来、川崎側ではトラフズクもコミミズクもみかけなくなったという。

 ちょうど、聳え立つCanon本社を眺めることができるあたりの出来事だ。 Canonが武器商人でないなら、カメラを野生動物迫害の兵器にさせない努力をすることが企業責任というものだろう。 

2011年6月9日木曜日

多摩川両岸の品位



 昼下がり、多摩川の川崎側、丸子橋付近のサイクリング・コースを自転車で散歩しているうちに、携帯電話を落としてしまった。 電話会社に連絡すると、GPSの一情報で、川崎区中原区小杉1丁目の半径1.5km以内にあると教えてくれたが、半径1.5km、つまり、1.5×1.5×3.14(円周率)=7.065平方kmの範囲のいったい、どこを探せばいいのだ。

 警察に遺失物届けをしたものの、発見はほとんど諦めていた。 ところが、みつかったのである。 夕方、自宅の固定電話にかかってきた男の声が、携帯を拾ったので渡したいというのだ。

 男は、自分の居場所は河川敷のテントだと説明した。 どうやらホームレスらしい。 その日は暗くなっていたので、翌日行ってみた。

 指定された場所には、想像していたブルーハウスではなく、小奇麗なコールマンの一人用テントがあり、外から声をかけると、50がらみのよく日に焼けた男が、ニコニコ笑いながら顔を出した。

 テントの中には、小さなテーブルがあって、「白鶴まる」の200mlコップ酒、「KIRINのどごし<生>」の350ml缶がそれぞれ数本、空になって転がっていた。 奥の方には、4リットルのペットボトル焼酎「大番頭」も見えた。

 「きのう、酒を買いにでかけたときに拾ったんだよ。 持っていきな」。 あっさりと携帯を手渡してくれた。

 丁重にお礼を言って、どうやら酒が好きらしいので、テーブルの上のコップや缶の数から酒代を頭の中で計算して、ちょっと少ないかなと思いつつ千円札2枚を握らせた。

 すると、男は「そんなつもりじゃねえ」と強い力でカネを突っ返した。 しばし押し問答をした末、結局、「今度、酒を持って遊びに来るよ」と言うと、相手はやっと満足してくれた。

 ホームレスだって礼節はわきまえているんだというプライド、矜持と言ったら、優越感で男を見下したことになろう。 そうではない。 普通の人間の普通の行為だった。 なにしろ、ホームレスの男も携帯を持っていたのだから。

 秋晴れの下、河川敷には野球に興じる子どもたちの声が響き渡っていた。 気持ちの良い、さわやかな1日になった。

 多摩川の向こう側に見える河岸段丘のあたりは田園調布。 数年前のことを思い出す。 そのときは財布を落とした。 やはり運良く、田園調布警察署から「みつかった」との連絡があった。

 拾い主は田園調布の住民だった。 まずはお礼を言おうと電話をした。 だが、相手の応答で、すっかり厭な気分にさせられた。

 東京を代表する高級住宅地・田園調布の財力と知性、教養のある住民という先入観が大間違いだったのだ。 いきなり、「それ相応の謝礼を出すんだろうね」と露骨にカネを求めてきたのだ。 このときは本人に会って、皮肉を込め多過ぎる額を渡し、あとで反省した。

 多摩川両岸。 河川敷と高級住宅地。 人間の品位には関係ない。

 (2010年9月28日付けThe Yesterday's Paper より転載) 

2011年6月6日月曜日

されど川崎大師



 「大同特殊鋼」といえば、世界的な特殊鋼生産企業だが、日本ではハンドボールの強豪チームと言ったほうが一般的には通用するかもしれない。 本社は名古屋だが、京浜工業地帯のど真ん中、川崎港近くの埋立地に大工場を持っている。羽田空港が面している多摩川から南へ約2km。 大昔は多摩川河口の遠浅な砂地の海だった。

 平安時代末期、崇徳天皇(1123~1141年)の代、ある朝、この浜辺に一人の中年の漁師が網を持って現れた。 その時、なぜか海には一か所、光り輝いている場所があり、その漁師はそこを目がけて網を投じた。 そして、1体の木像を引き揚げた。 なんと、それは弘法大師が唐(中国)に留学していたときに彫った自らの像で、当時海に流したものが漂着したものだった。

 漁師の名前は、平間兼乗。 尾張生まれの武士だったが、父・兼豊とともに無実の罪で生国を追われ、各地を流れ歩いた末、川崎に住みつき漁師として生きながらえていた。

 弘法大師をひたすら敬っていた兼乗は厄年の42歳になり、毎日厄除けの祈願を続けていたところ、ある夜、弘法大師が夢枕に立って告げた。

 「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。 以来未だ有縁の人を得ず。 いま、汝速やかに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり所願もまた満足すべし」

 木像を引き揚げた兼乗は、丁寧に清め、毎日供養を怠らなかった。 そんな日々が続いていたとき、高野山の尊賢上人が諸国行脚の途中、兼乗のもとに立ち寄った。 上人は木像の話を聞いて感激し、兼乗と協力して、大治3年(1128年)その地に寺を建立した。

 寺の名前は、兼乗の姓から平間寺(へいけんじ)とし、御本尊を厄除弘法大師と称した。 これが、現在、初詣参拝者数で明治神宮、成田山新勝寺に次ぐ全国第3位296万人の「大本山川崎大師平間寺」の由来とされている。

 兼乗が網を投じた場所は、大師河原、夜光町と呼ばれ、川崎市道路案内には、大同特殊鋼の敷地がほとんどの川崎区夜光2丁目に、歴史逸話を残すためか、「大師河原字夜光」と記されている。

 日本資本主義を支え推進してきたこの地は今、コンクリートと無機質な機械の群れと濁った運河の水に支配され、貧しい漁師が投網する情景は想像だにできない。 ただ、「夜光」という名は、今も正しいと言える。 一帯の工場群の夜間の輝きはモンスターにも思える。 20世紀後半に公害の象徴でもあったその姿に、21世紀の若者たちは悪ではなくアートとしての美しさを見出している。

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 それにしても、川崎大師の由来話は出来すぎている。

 弘法大師、当時の空海は774年生まれ、835年没。 中国に留学僧として渡ったのは804年から806年の2年間。 このときに自分の木像を彫ったとすれば、320年たっても朽ちることなく中国から川崎にたどり着いたことになる。 しかも、潮流に乗って太平洋を漂い、うまい具合に、三浦半島と房総半島に挟まれた幅最小6.5kmの浦賀水道を通って東京湾に入り込まなければならない。 それは、まさに奇跡であり、奇跡だからこそ故事来歴は成立するとは言える。 信じない人は単に「眉唾もの」とせせら笑うだけだ。

 ただ、この奇跡が起こりうることだったと思わせる最近の調査結果もないわけではない。

 海洋汚染防止に取り組んでいるという某NPO団体が、2003~2004年にかけて日本の海岸に漂着するゴミを調査した。 その中から生産国表示が判読しやすい使い捨てライターの統計をとった。

 それによると、全国92の海岸で拾った6609本のうち、中国製の5割は与那国島から屋久島にかけての地域に漂着した。 九州西岸では2割、日本海側の山形県で1-2割、太平洋側では高知県以北に行くと中国製は1割を切った。 この調査は具体的数字をきちんと示していないので、全体的に信頼性が欠けるのだが、興味深いのは、東京湾内で拾い集めた中にも中国製が数%含まれていたことだ。

 ただ、この数%が中国から流れ着いたとは言い切れない。 中国人はところ構わずゴミを捨てる人々として世界的に知られている。 しかも近ごろの中国は、太平洋での軍事的存在感を高めようと多くの海軍艦船も遊弋しているし、数え切れない中国貨物船と中国人船員たちも日本近海にはいるはずだ。 彼らが海に投げ捨てるライターの数は馬鹿にできないだろう。

 中国人観光客だって、ディズニーランドや横浜港周辺で珍しくない。 羽田空港の多摩川に面した区域には、日本語、英語、ハングルそれに中国語でも「立ち入り禁止」と表示してある。 中国人蜜入国者が上陸前にタバコに火をつけ、一服したあとライターを投げ捨てる可能性があるなどとは言わないが。

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 宗教心が希薄な多くの日本人でも、神社や寺院の境内では、静謐の小宇宙を感じとるだろう。 この感覚は宗教というより文化であろう。 村や町の名の知られていない寺社でも、それは感じることができる。

 川崎大師の境内というところは、その意味で、実に不思議な場所だ。

 統一感が欠如しているのだ。 大山門をくぐると大本堂が目の前に聳え立っているのが目に入る。 そのほかにも、八角五重塔、不動堂など様々な建造物が広い敷地内に配置されている。 だが、建物のデザインのせいか、境内という宇宙の中の統一性が感じられない。 バラバラなのだ。

 入場無料の仏教テーマパークとでもいった印象だろうか。 焼きソバやお好み焼きの出店の客引き、地べたに怪しげな骨董品まがいを並べた物売り、こういった俗物連中がひどく目立つ境内だ。 ここで心を洗われる神聖さや高潔さ、来世の幸福などという抽象的な満足感を求めることはできない。

  「災厄消除」「家内安全」「商売繁盛」「身上安全」「心願成就」「開運満足」「安産満足」「病気平癒」etc。 なんでもありで護摩祈願を引き受けてくれる。 祈願料は最低の5000円から、特別大護摩の30000円以上まで様々。 2006年には新たに巨大な自動車交通安全祈祷殿を国道409号線沿いの広大な敷地に完成させた。 祈祷料は5000円。  
 おそらく、ここは現世の利益を露骨に、恥も外聞もなく求められる場所なのだ。怪しげな故事来歴など、どうでもいい。 宗教などと無関係の多くの日本人が、ひとときの夢を抱けるからこそ、川崎大師はいつも賑わっているに違いない。 きっと、それでいいのだ。