2012年4月21日土曜日

とっても不思議な多摩川大時計



 初めて見る人は、それが大時計だと気付くのに、しばらく時間がかかるだろう。 いや、「大時計ではないかと気付く」と言い換えるべきかもしれない。 それにしても、長針も短針もない。 

 丸い文字盤(?)に等間隔で12の四角い穴があいていて、よく見ると、赤く光っている。 さらに、じっと見ると、緑色と黄色がひとつずつ光っているのがわかる。 自分の腕時計と見比べ、どうやら、緑色が短針、黄色が長針と推測できる。

 普通の視力の人でも、この大時計を見て、現在時間をすぐに言うことはできないだろう。 色弱の人はまったく識別できないに違いない。

 この意味不明の大時計は、多摩川の東京側、ガス橋と多摩川大橋の中間あたり、巨大な清掃工場の外壁にある。 住所でいうと、大田区下丸子2丁目。 

 工場の正式名称は「東京23区清掃一部事務組合 多摩川清掃工場」という。 「一部事務組合」というのは、地方自治法で定められた複数の自治体が共同して行う事業の主体になる組織だそうだ。 つまり、東京23区が共同してゴミ処理をしている工場ということなのだ。

 それはいいが、なぜ、こんな時計を設置したのだろうか。 工場の責任者ですら、この時計を見て、すぐに時間がわかるわけがない、と自覚している。

 どうして、そんなことがわかるかというと、工場の正面入り口横に、ご丁寧にも「壁面大時計の読み方」という説明の看板があるからだ。 とはいえ、この通りに歩行者はほとんどいない。 そこは旧多摩堤通りで、走り抜けるクルマばかりだ。

 だが、大時計だとわかるにしても、こんな場所に設置した理由がわからない。

 工場は、旧多摩堤通りと、さらに通りと平行に走る多摩川のサイクリングコースがある土手に面し、その先は河川敷の野球グラウンドと川の流れ。 

 サイクリングやジョギング、ウォーキングの人たち、野球に夢中の子どもたちが、ここで時間を知ろうとするとは思えないし、昼間は明るすぎて時計の発する光がよく見えない。 しかも河川敷からでは近過ぎて、ななめ横から見上げても時間を読み取れない。

 最もよく見えるのは、東京側ではなく、対岸の川崎側、日没から夜明けの間であろう。 ただ、こんな時間の河川敷は、東京側でも川崎側でも人通りはほとんどいない。 誰がこの時計を必要としているのか。

 多分、大時計を日々、いつも眺めているのは、川崎側のブルーハウスに棲むホームレスたちであろう。 「東京23区清掃一部事務組合」は、川崎のホームレスのために大時計を設けたのか。 東京都民の税金を使って。

 万が一そうだとしたら、大間違いの現状認識だ。 近ごろは、ホームレスでも携帯電話を持っているし、CASIOの腕時計くらいは、はめている。

 不思議な、不思議な大時計。 どなたか、この謎を解いてください。 

2012年2月17日金曜日

ホームレスから読む国際経済

 2004年4月20日

 世界第2位のスーパーマーケット、フランスのCarrefourが日本での展開に失敗して2005年に引き揚げたとき、新聞か雑誌に面白い分析が出ていたのを記憶している。 「フランス人は、メルセデスに乗って百円ショップに買い物に行くような日本人の消費動向を理解できなかった」 こんな内容だったと思う。

 そうだとすれば、フランス人が、スーパーカーが一世を風靡した時代、ランボルギーニで銭湯に行く若造を見ていたら、彼らはもっとうまい商売をできただろうに。

 フランス人に限らず、確かに、外国人からすれば日本人の金持ちと貧乏人の見分けは難しいに違いない。小便臭い小娘がカルチエだのルイヴィトンといった高価なブランドものを身に着けているのを街でみかけても、日本人なら驚きもしないが、欧米人なら目をむくかもしれない。

 日本人の生活は収入の差にかかわらず、驚くほど均質化している。 多摩川の河川敷をジョギングしているときに見かけるホームレス男は、近所のスーパーで普通の家庭の奥様方にまじって、彼女たちと同じ「本日特価」の鶏肉を買っていた。別の男は、疲れたお父さん方が飲むのと同じ栄養ドリンクの6本パックを買っていた。

 2007年9月に多摩川が何十年ぶりかの洪水に見舞われたとき、頑丈に作ったブルーハウスのひとつが壊れずに土手まで流れ着いた。

 中を覗いてみると、3畳ほどの広さで、想像したより小奇麗に整理され、手作りの棚にはステレオのラジカセと韓国の人気歌手・桂銀淑のテープがきちんと並べられていた。さらに驚かされたのは、最高級のものではないにしても、’MOET &CHANDON’ラベルのシャンパン・ボトルが口を開けずに置いてあったことだ。 

 「いったい、どんなヤツが棲んでいたんだ!」

  居心地の良さそうな内部から想像するかぎり、社会のセイフティ・ネットから零れ落ち、かろうじて生きながらえている人間の棲み家ではない。 「ホームレス」とは経済的困窮生活の典型だろうが、中には、ボヘミアン的な、生きるスタイルとして選択した少数の変わり者もいるに違いない。

 昨年(2008年)9月のリーマン・ブラザーズ破綻ショック以来の「百年に一度の経済危機」は、ホームレスの生活を直撃した。彼らの主たる収入源がアルミ缶の回収で、リーマン・ショック以降、アルミ相場が国際的に暴落したからだ。

 コンビニやゴミ置き場をあさって、空き缶をかき集め、業者に持ち込む。だが、昨年夏に1kg当たり180円だった相場は下がり続け、今年2月には40円という底値に達した。この価格は、多摩川のホームレスから聞き出した数字で、地域によって多少異なる。集められたアルミ缶は回収業者に買い取られ、卸業者のもとへ運ばれる。日本アルミニウム協会のホームページに載っている「アルミニウム地金市況」の価格は、末端ホームレスの2~3倍だが、暴落は同じだ。

 昨年の秋、回収業者と世間話をしていたら、価格の下落もさることながら世界のアルミの需要が激減して売れなくなったので、ホームレスの持ち込みは断っていると言っていた。彼らは国際的経済危機に直接曝され、暖冬とはいえ心が凍る冬を過ごしたはずだ。

 東京のホームレスは2009年1月時点で、3,428人、1年前より368人減少した(厚生労働省の発表)。この数字をどう読むか。 河川敷の管理を業務としている国土交通省の河川事務所なるところが、きちんとした科学的動向調査を実施しているとは思わないが、ひとつの見方として、生活が苦しくなってホームレスをやっていけなくなり、生活保護を受けるようになったという減少理由をあげている。 つまり、ホームレスは生活保護者より経済レベルは上なのだ! 妙なことに、河川ホームレスの減少は経済悪化が原因というわけだ。

 彼らにとって、この冬が苦しくなかったはずはない。 4月、桜の花も散って、このところ汗ばむ日もある。 ホームレスのジジイに声をかけてみた。2月にキロ40円だったアルミ缶が3月には45円、4月には60円、まだ上がりそうだと嬉しそうだった。国際経済はこんなところでも解読することができるのだ。日本経済新聞の展望が今後にやや明るさを取り戻してきたときと軌を一にする。 だが、ジジイは言った。「俺は去年、180円も経験しとる。まだまだ」。この欲張りめ!

ホームレスにたかる



2010年5月18日
 ん十万円するロードバイクを買った友人が使わなくなったマウンテン・バイクをタダで譲ってくれた。 多摩川の川縁を自転車トレッキングするのに欲しいと思っていたので、とても嬉しかった。
 ただ、ごついマウンテン・バイクをほんの少しカスタマイズして、マッチョの概観をおとなしくした。 ハンドルバーを10センチほど、ちょん切って、太くてゴツゴツしたタイヤを細身のものに替えた。 本格的なダウンヒルや山行をしないなら、これで十分だし、街中を軽快に走れる。
 スマートでかっこいいが細くて硬いサドルも、乗り心地の良いママチャリ用のに替えたかったが、あのダサイ見かけのサドルが2、780円もしたので、とりあえずは現状で我慢することにした。
 早速、トレッキングに出発。 土手の上のサイクリング・コースしか走れないロードバイクから、マウンテン・バイクに乗り替えて飛び込んだ草むらのサイクリングは、想像以上の面白さだった。
 土手からは遠い水面が目の前にせまる。 草むらからムクドリが自転車に驚いて飛び立つ。 野糞をしている男の尻からは目をそむける。 思い切って背丈の高い草むらに自転車ごと突っ込んでみた。 ちょっとした子どもっぽい冒険。 自然の中を突っ走る爽快感。 土手を越えて水辺に近づくだけで、世界が一変するのだ。
 それにしても、問題は、やはりサドルだった。 スピードを競うならサドルにまともに座ることはないが、お散歩トレッキングとなると、でこぼこ道でも尻をどっしりとサドルに載せてしまう。 これが続くと、結構しんどい。
 尻が痛いのを我慢していたとき、河原の草むらのむこうに、まるで幻想のように、買いたいと思っていたママチャリのサドルがいくつも見えた。 ウソだろ? 
 近づいてみると、そこはホームレスのブルーハウスだった。 ポンコツの自転車が何台も放り出してある。 50がらみの男が一人立っていた。青ざめた顔色の高収入サラリーマンと違って、健康的に日焼けしていた。 声をかけてみた。
 「自転車がたくさんあるけど、サドルだけひとつくれないかなあ?」 「自転車なんか、河原のあちこちに捨ててあるから、構わん。 これ、今、オレが使ってるやつだ。 持ってきな」
 「ダメモトでとりあえず声をかけてみるもんだろ」と、こっちが言おうとしたセリフまで言ってくれた。
 二子橋と丸子橋の中間あたりの東京側。
 「このあたりで釣れる鯉は臭くないよ。身を薄く切って塩もみしたあと、よく洗う。それをかるく湯通ししたのをポン酢で食う。 今度は釣竿を持ってきな。釣り方教えてやるよ」 「いやー、ありがとう。 サドルをもらって、鯉の調理法まで教えてもらって」
 マウンテン・バイクに乗ると、ホームレスの友達までできるのだ。 もらったサドルを装着してみると想像した通りの快適な乗り心地。
 本当に、釣竿とお礼の焼酎でも持って、また、あのホームレスのところへ行ってみよう。
 ただ、こういう話は面白がるヤツもいれば、生理的な嫌悪感を覚える潔癖症のヤツもいる。 話す相手は気を付けて選ぼう。

2011年8月9日火曜日

多摩川の砂利



 水面に平べったい小石を投げて、水の上を何回弾ませるか競う遊びを、なんて言うのだろうか。 子どものころ、友だちと飽きずに続けたものだ。 場所は、二子玉川の兵庫島あたりの多摩川だった。

 今は遊泳禁止だが、あのころの夏は、水遊びの子どもやおとなで賑わって、タイヤのチューブを膨らませた貸し浮き袋屋とか自転車に荷台にノボリを立てたアイスクリーム売りの姿もあった。 ただ、1年に1人か2人は水死していたと思う。

 同じ多摩川のもっと下流、丸子橋からガス橋を経て多摩川大橋にかけて長いjog & walkをしているときに、そんな子どものころの多摩川の光景を思い出した。 そして、久しぶりに石を投げてみようかと思って、周りを見回したが、その辺りに砂利の河原はなかった。

 幼児期の刷り込み効果で、多摩川の水辺というと一面の砂利というイメージをずっと持っていたから、これは驚くべき新発見だった。 なぜ、砂利がないのだ。

 大田区は多摩川に面しているだけに、区立図書館はさすがに多摩川関連の文献が充実していた。 そう、砂利のことを知りたくて、図書館に行ってみた。

 ここで、さらに、ちょっとした驚きに出会った。 借り出した資料は「新多摩川誌」、ハードカバーで上中下3冊の立派な書物で、1冊2kgはある。 これは、凄い書物だった。 多摩川の自然から流域の歴史、習俗、経済、環境問題など、あらゆるテーマを網羅した百科事典といえる労作だった。 多摩川に関して何かを知ろうとすれば、おそらく、この「新多摩川誌」を避けて通ることはできないであろう。

 もっと驚いたのは、これを企画したのが「国土交通省関東地方整備局京浜工事事務所」で、発行したのが、その外郭団体「財団法人・河川環境管理財団」だったということだ。

 いずれの組織も、多摩川河川敷の整備、管理を担当しているが、周辺住民の目から見ると、洪水防止を除けば何もしていないヒマな役所で、存在そのものに疑問が持たれている。 仕分けの対象にならないのが不思議なくらいだ。

 そんな役所に、こんな立派な出版ができたのだ。 なんだ、その気になって仕事をすれば結果がきちんと出るではないか。

 「新多摩川誌」が教えてくれたのは、多摩川の砂利の歴史は、日本の資本主義発達史そのものだということだ。

 東京の都市としての発展には、コンクリート建設に欠かせない多摩川の砂利が大きな貢献をした。 多摩川の砂利は良質なことで知られ、建設資材ばかりでなく、敷石としても重宝がられた。 皇居前広場に敷かれた砂利も多摩川産だという。 採取は下流から始まって遡上していった。 やがて、丸子橋あたりまでは砂利が掘り尽くされ、自然の川は死んでしまった。 その後、まがりなりにも採取が規制され、丸子橋より上流には砂利が残った。

 今、広々とした河川敷は、野球やサッカーのグラウンド、テニスコート、ゴルフ練習場になって、スポーツの歓声が響いている。 これも、砂利が消え、川が死んだおかげなのだ。 

2011年6月10日金曜日

フクロウ騒動



 (以下、 The Yesterday's Paper から転載)

2010年12月27日

 <フクロウ5羽が、大田区の多摩川河川敷にねぐらを作り、住民の間で「散歩の楽しみが増えた」などと話題になっている。 日本野鳥の会(品川区)によると、「トラフズク」というフクロウの仲間。 雪が苦手で、冬に数羽から数十羽の群れで本州以北の寒冷地から暖かい地域へ南下してくるが、都心部で見つかるのは珍しいという。 ネズミやモグラ、小鳥などの餌を捕まえやすい河川敷で、身を隠す常緑樹があるなど条件がそろっているためではないかとしている。 同会自然保護課の葉山政治さん(53)は「人が集まったり、フラッシュを使って撮影したりすると、ねぐらを放棄してしまう恐れがある。 移動する春まで静かに見守ってほしい」と話している。>(2010年12月23日付け読売新聞)

 この記事の見出しは、「多摩川河川敷にフクロウ『静かに見守って』」。

 それから数日後、ジョギング代わりにしているマウンテンバイクのサイクリングで、いつもは人気のない多摩川の川岸を走っていたら、見慣れない人の群れに出くわした。 誰もが長い望遠レンズを装着した一眼レフ・カメラを持っている。

 彼らは皆、頭の真上の樹木をみつめていた。 見上げて見ると、見慣れない姿の鳥が数羽、枝にとまっていた。 どうやら、新聞に出ていたフクロウらしい。 フクロウたちは、人間たちに静かに見守られてはいなかった。

 自宅のまわりに人だかりがして、一斉に自分の居間が覗かれていたら、誰だって頭がおかしくなる。 フクロウだって同じだろう。 たまったものではない。

 「静かに見守って」と新聞が報じれば、逆に騒がしくなるに決まっている。 とはいえ、この珍しい光景は、やはりニュースであろう。

 この報道は正しかったのだろうか。

 フクロウが早々にねぐらを放棄して姿を消したら新聞の負けだと思う。 それにしても、新聞は報じる前に、その是非を検討したのだろうか。 まさか、していないとは思わないが。


2011年1月10日

 多摩川のフクロウに群がる霊長類ヒト科カメラ族の数は、年を越しても減る気配はない。

 さらしものにされた可哀想なふくろうたちよ!!!

 カメラじじいと呼ばれる年寄りたちは、巨大な望遠レンズの重さに耐え、腕をぶるぶる震わせながら樹上のフクロウを捉えるシャッターチャンスを狙っていたが、明らかに手ブレ防止装置の限界を超えていた。 あの振るえは本格的寒気による強い北風のせいもあろうが、自分の実力を無視した喜劇であろう。

 有名な女写真家ヘニー・ファン・ヘールデンがベンガルワシミミズクの迫りくる飛翔を見事に捉えるCanonのテレビCMを真似しようったって、そうはいかない。

 高額なカメラとレンズをいじくる快感に没頭するオタクたちには、彼らの標的となったフクロウたちの心情を慮る神経が欠如している。 彼らのそばを通るとき、覗き魔変態集団の薄気味悪さを背筋にぞくぞく感じる。 これも寒さのせいだけではないと思う。


2011年2月2日

 衆人環視のもとでの生活を強いられた多摩川フクロウの悲劇は、いくつかのきっかけが重なった結果であろう。 どれか一つに責任を負わせることはできないが、明らかに、きっかけの一つを作った人物を、ほぼピンポイントで特定することができた。

 哀れなフクロウたちの居場所から遠くない駅近くの商店街の熟年男だった。

 本人に悪気はまったくなく、無邪気に色々なヒトに見てもらいたいと思って、新聞社に電話で通報した。 新聞は場所をぼかして、珍しいフクロウの飛来を報じたが、地物の口コミもあいまって、たちまち知れ渡ってしまった。

 通報した人物は、新聞が場所を明確に伝えなかったので、役所の広報課にも電話をして、問い合わせがあったら教えるようにと詳しい場所を伝えた。

 善意の人なのだ。 きっと周囲の人たちに好かれる親切なオジサンであろう。 そして、フクロウの写真を撮ろうと連日集まる人々も、動物と自然を愛する優しい気持ちを、心の中に多少は持っているだろう。

 フクロウたちは、かれこれ2か月も人間たちに連日覗かれながら、けなげにも同じ場所で動かずに耐えている。

 そろそろ”視撃”から解放してやりたいが、好奇心をいう魔物がそれを許そうとしていない。


2011年3月16日

 巨大地震・津波が起きる直前の3月11日午前中には、確か2羽がいたと思う。 だが、2日前には1羽しか見なかった。 そして、きょう3月16日は、朝から1羽も見なかった。

 東京・大田区の多摩川河川敷に昨年12月から棲みついた6羽のフクロウは、たちまち人間たちの好奇心に晒され、3か月間にわたりカメラという狩猟道具の標的にされ続けた。

 年が明け、ハンターたちの数が膨らむにつれ、フクロウの数は1羽ずつ減っていった。 いったい、どこへ行ったのだろうか。 ストレスで死んでしまったのだろうか。

 彼らが棲んでいた柳の木は、まるで空き家のようだ。 留守になった枝で戯れているのは騒がしいムクドリだけ。

 短い期間だったが、多摩川のスーパースターになったフクロウたちが、どこへ消えたのか、誰も知らない。

2011年5月11日

 日本を代表するカメラメーカーCanonの社名は、1935年、世界で通用するブランド名として採用された。 キリスト教の「聖典」「規範」を意味し、精密機械にふさわしいというのが理由とされる。

 英語で1字違いのスペルcannonは、発音は同じだが意味がまったく異なる。 戦場で昔から使われてきた代表的な大砲のことだ。

 近ごろ、野生動物の撮影と称して、兵士のように迷彩服で身を固め、長大な望遠レンズを担いでいるマニアックな人々を見ると、Canonは、社名をCannonに変更してもいいのではないかと思ってしまう。 あの望遠レンズは、みかけがRPGロケット砲みたいだというだけではなく、実際、命を脅かす武器にもなるからだ。

 川崎市・平間のベテラン写真家K氏が語るカメラ・フリークたちの生態はおぞましい限りだ。

 この冬、東京・大田区の多摩川河川敷にフクロウの1種、トラフズクが棲みつき、カメラを担いだ人間たちが群がった。 彼らは、夜行性のトラフズクが樹上で休んでいる昼間、情け容赦なく望遠レンズ=大砲の集中砲火を浴びせた。 K氏によると、動物へのいたわりの気持ちがかけらもない連中の存在は、今に始まったことではない。

 約10年前までは、多摩川の川崎側でトラフズクを見ることができたという。 当時も、その存在が知れ渡り、カメラ人間たちが群がった。 昼間は目を閉じて休んでいるトラフズクを長い棒でつついて起こして、目を開けた写真を撮ろうとするヤツまでいたと、K氏は憤慨する。

 このころは、コミミズクも多摩川に棲んでいた。 コミミズクは昼間も行動するので様々な絵柄の写真を撮れる。 狙い目は、河川敷に巣食う野ネズミを急襲する瞬間だ。 だが、水辺ぎりぎりまでゴルフ場の芝が敷き詰められてた河川敷の餌場は限られている。 ところが、狼藉者たちは、ずかずかと餌場に入り、ネズミの巣穴の上に立ってカメラを構える。 これではコミミズクがネズミを捕らえることはできない。

 K氏は「鳥の気持ちを少しは考えろ」とたしなめた。 すると、その相手は「オレは鳥じゃないからわからん」とうそぶいた。 それでもK氏は、群がる無法者たちに丁寧に説明して、餌場の外で撮影するというルールだけは守るようにさせた。

 それからしばらくして、その餌場は多摩川の大水で冠水した。 以来、川崎側ではトラフズクもコミミズクもみかけなくなったという。

 ちょうど、聳え立つCanon本社を眺めることができるあたりの出来事だ。 Canonが武器商人でないなら、カメラを野生動物迫害の兵器にさせない努力をすることが企業責任というものだろう。 

2011年6月9日木曜日

多摩川両岸の品位



 昼下がり、多摩川の川崎側、丸子橋付近のサイクリング・コースを自転車で散歩しているうちに、携帯電話を落としてしまった。 電話会社に連絡すると、GPSの一情報で、川崎区中原区小杉1丁目の半径1.5km以内にあると教えてくれたが、半径1.5km、つまり、1.5×1.5×3.14(円周率)=7.065平方kmの範囲のいったい、どこを探せばいいのだ。

 警察に遺失物届けをしたものの、発見はほとんど諦めていた。 ところが、みつかったのである。 夕方、自宅の固定電話にかかってきた男の声が、携帯を拾ったので渡したいというのだ。

 男は、自分の居場所は河川敷のテントだと説明した。 どうやらホームレスらしい。 その日は暗くなっていたので、翌日行ってみた。

 指定された場所には、想像していたブルーハウスではなく、小奇麗なコールマンの一人用テントがあり、外から声をかけると、50がらみのよく日に焼けた男が、ニコニコ笑いながら顔を出した。

 テントの中には、小さなテーブルがあって、「白鶴まる」の200mlコップ酒、「KIRINのどごし<生>」の350ml缶がそれぞれ数本、空になって転がっていた。 奥の方には、4リットルのペットボトル焼酎「大番頭」も見えた。

 「きのう、酒を買いにでかけたときに拾ったんだよ。 持っていきな」。 あっさりと携帯を手渡してくれた。

 丁重にお礼を言って、どうやら酒が好きらしいので、テーブルの上のコップや缶の数から酒代を頭の中で計算して、ちょっと少ないかなと思いつつ千円札2枚を握らせた。

 すると、男は「そんなつもりじゃねえ」と強い力でカネを突っ返した。 しばし押し問答をした末、結局、「今度、酒を持って遊びに来るよ」と言うと、相手はやっと満足してくれた。

 ホームレスだって礼節はわきまえているんだというプライド、矜持と言ったら、優越感で男を見下したことになろう。 そうではない。 普通の人間の普通の行為だった。 なにしろ、ホームレスの男も携帯を持っていたのだから。

 秋晴れの下、河川敷には野球に興じる子どもたちの声が響き渡っていた。 気持ちの良い、さわやかな1日になった。

 多摩川の向こう側に見える河岸段丘のあたりは田園調布。 数年前のことを思い出す。 そのときは財布を落とした。 やはり運良く、田園調布警察署から「みつかった」との連絡があった。

 拾い主は田園調布の住民だった。 まずはお礼を言おうと電話をした。 だが、相手の応答で、すっかり厭な気分にさせられた。

 東京を代表する高級住宅地・田園調布の財力と知性、教養のある住民という先入観が大間違いだったのだ。 いきなり、「それ相応の謝礼を出すんだろうね」と露骨にカネを求めてきたのだ。 このときは本人に会って、皮肉を込め多過ぎる額を渡し、あとで反省した。

 多摩川両岸。 河川敷と高級住宅地。 人間の品位には関係ない。

 (2010年9月28日付けThe Yesterday's Paper より転載) 

2011年6月6日月曜日

されど川崎大師



 「大同特殊鋼」といえば、世界的な特殊鋼生産企業だが、日本ではハンドボールの強豪チームと言ったほうが一般的には通用するかもしれない。 本社は名古屋だが、京浜工業地帯のど真ん中、川崎港近くの埋立地に大工場を持っている。羽田空港が面している多摩川から南へ約2km。 大昔は多摩川河口の遠浅な砂地の海だった。

 平安時代末期、崇徳天皇(1123~1141年)の代、ある朝、この浜辺に一人の中年の漁師が網を持って現れた。 その時、なぜか海には一か所、光り輝いている場所があり、その漁師はそこを目がけて網を投じた。 そして、1体の木像を引き揚げた。 なんと、それは弘法大師が唐(中国)に留学していたときに彫った自らの像で、当時海に流したものが漂着したものだった。

 漁師の名前は、平間兼乗。 尾張生まれの武士だったが、父・兼豊とともに無実の罪で生国を追われ、各地を流れ歩いた末、川崎に住みつき漁師として生きながらえていた。

 弘法大師をひたすら敬っていた兼乗は厄年の42歳になり、毎日厄除けの祈願を続けていたところ、ある夜、弘法大師が夢枕に立って告げた。

 「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。 以来未だ有縁の人を得ず。 いま、汝速やかに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり所願もまた満足すべし」

 木像を引き揚げた兼乗は、丁寧に清め、毎日供養を怠らなかった。 そんな日々が続いていたとき、高野山の尊賢上人が諸国行脚の途中、兼乗のもとに立ち寄った。 上人は木像の話を聞いて感激し、兼乗と協力して、大治3年(1128年)その地に寺を建立した。

 寺の名前は、兼乗の姓から平間寺(へいけんじ)とし、御本尊を厄除弘法大師と称した。 これが、現在、初詣参拝者数で明治神宮、成田山新勝寺に次ぐ全国第3位296万人の「大本山川崎大師平間寺」の由来とされている。

 兼乗が網を投じた場所は、大師河原、夜光町と呼ばれ、川崎市道路案内には、大同特殊鋼の敷地がほとんどの川崎区夜光2丁目に、歴史逸話を残すためか、「大師河原字夜光」と記されている。

 日本資本主義を支え推進してきたこの地は今、コンクリートと無機質な機械の群れと濁った運河の水に支配され、貧しい漁師が投網する情景は想像だにできない。 ただ、「夜光」という名は、今も正しいと言える。 一帯の工場群の夜間の輝きはモンスターにも思える。 20世紀後半に公害の象徴でもあったその姿に、21世紀の若者たちは悪ではなくアートとしての美しさを見出している。

 +         +         +         +

 それにしても、川崎大師の由来話は出来すぎている。

 弘法大師、当時の空海は774年生まれ、835年没。 中国に留学僧として渡ったのは804年から806年の2年間。 このときに自分の木像を彫ったとすれば、320年たっても朽ちることなく中国から川崎にたどり着いたことになる。 しかも、潮流に乗って太平洋を漂い、うまい具合に、三浦半島と房総半島に挟まれた幅最小6.5kmの浦賀水道を通って東京湾に入り込まなければならない。 それは、まさに奇跡であり、奇跡だからこそ故事来歴は成立するとは言える。 信じない人は単に「眉唾もの」とせせら笑うだけだ。

 ただ、この奇跡が起こりうることだったと思わせる最近の調査結果もないわけではない。

 海洋汚染防止に取り組んでいるという某NPO団体が、2003~2004年にかけて日本の海岸に漂着するゴミを調査した。 その中から生産国表示が判読しやすい使い捨てライターの統計をとった。

 それによると、全国92の海岸で拾った6609本のうち、中国製の5割は与那国島から屋久島にかけての地域に漂着した。 九州西岸では2割、日本海側の山形県で1-2割、太平洋側では高知県以北に行くと中国製は1割を切った。 この調査は具体的数字をきちんと示していないので、全体的に信頼性が欠けるのだが、興味深いのは、東京湾内で拾い集めた中にも中国製が数%含まれていたことだ。

 ただ、この数%が中国から流れ着いたとは言い切れない。 中国人はところ構わずゴミを捨てる人々として世界的に知られている。 しかも近ごろの中国は、太平洋での軍事的存在感を高めようと多くの海軍艦船も遊弋しているし、数え切れない中国貨物船と中国人船員たちも日本近海にはいるはずだ。 彼らが海に投げ捨てるライターの数は馬鹿にできないだろう。

 中国人観光客だって、ディズニーランドや横浜港周辺で珍しくない。 羽田空港の多摩川に面した区域には、日本語、英語、ハングルそれに中国語でも「立ち入り禁止」と表示してある。 中国人蜜入国者が上陸前にタバコに火をつけ、一服したあとライターを投げ捨てる可能性があるなどとは言わないが。

 +         +         +         + 

 宗教心が希薄な多くの日本人でも、神社や寺院の境内では、静謐の小宇宙を感じとるだろう。 この感覚は宗教というより文化であろう。 村や町の名の知られていない寺社でも、それは感じることができる。

 川崎大師の境内というところは、その意味で、実に不思議な場所だ。

 統一感が欠如しているのだ。 大山門をくぐると大本堂が目の前に聳え立っているのが目に入る。 そのほかにも、八角五重塔、不動堂など様々な建造物が広い敷地内に配置されている。 だが、建物のデザインのせいか、境内という宇宙の中の統一性が感じられない。 バラバラなのだ。

 入場無料の仏教テーマパークとでもいった印象だろうか。 焼きソバやお好み焼きの出店の客引き、地べたに怪しげな骨董品まがいを並べた物売り、こういった俗物連中がひどく目立つ境内だ。 ここで心を洗われる神聖さや高潔さ、来世の幸福などという抽象的な満足感を求めることはできない。

  「災厄消除」「家内安全」「商売繁盛」「身上安全」「心願成就」「開運満足」「安産満足」「病気平癒」etc。 なんでもありで護摩祈願を引き受けてくれる。 祈願料は最低の5000円から、特別大護摩の30000円以上まで様々。 2006年には新たに巨大な自動車交通安全祈祷殿を国道409号線沿いの広大な敷地に完成させた。 祈祷料は5000円。  
 おそらく、ここは現世の利益を露骨に、恥も外聞もなく求められる場所なのだ。怪しげな故事来歴など、どうでもいい。 宗教などと無関係の多くの日本人が、ひとときの夢を抱けるからこそ、川崎大師はいつも賑わっているに違いない。 きっと、それでいいのだ。